1-2. 盆地の 東 : 椎葉方面
椎葉村(しいばそん)は、「ひえつき節」や「鶴富屋敷」で知られる平家落人伝説の里である。
この椎葉村に接するのは球磨郡の水上村であるが、この水上村との境界線がやっと確定したという記事を見つけた。それは、平成22年(2010年)9月30日付の総務省告示で、「・ ・ ・ 廃藩置県以来約140年間、隣接する熊本県水上村と宮崎県椎葉村との境界が、湯山峠の西側約1700メートルにわたり未確定だったが、総務省告示があり、椎葉村と水上村との境界が確定した」、というものである。しかし、現在のヤフー地図では、図1に示すように、途絶えたままになっている。地域境界線が未確定で、未だ途絶えたままの表示になっている箇所が小林市とえびの市にもある。その詳細は、東西南北の「南」の項で述べる。
図1. 現在も途切れている水上村と椎葉村の境界線 (Yahoo地図) |
この椎葉村も、江戸時代(1656年頃)、西米良村と同じく人吉藩の一部であった。そのせいなのか、距離的に球磨郡に近いためなのか、椎葉村も球磨地方と深い付き合いがあった。特に、不土野(ふどの)地区は上椎葉と水上村がほぼ同距離であったため、交流が盛んであった。交易産品は、当時、不土野のどこの家でも栽培していた麻で、峠を越えて球磨地方に持ち込まれ、球磨からは米や焼酎などが重宝がられた。
麻と球磨地方の関係については、先に「人吉球磨地方の自然:球磨川旅情」の項で詳しく述べたように、麻は、神道でも、皇室でも最も神聖な植物である。古代の球磨地方がその産地であったことは、「球磨の六調子」の歌詞に「♬・・麻の袴を 後ろ低う前高う・・」と麻の袴(はかま)が出てくることや、球磨川の別名が「夕葉川」と呼ばれていたことからも推察できる。「夕葉」とは「麻」のことで、詳細は、「球磨川旅情」で述べたのでごお目通しいただきたい。要するに、「麻」は、「求麻」・「球磨」の語源となった植物である。
椎葉村の方言や伝承芸能にも人吉球磨地方と同じようなものがある。まず、椎葉村の方言で、例えば、
・「一人で来たや?」 いんにゃお父さんも来たばい今から約800年前、平安時代の後期、椎葉村には思いもよらぬ移住者があった。それは平家の落人と源氏の追討勢である。平家落人伝説は、読者諸氏も周知のことではあるが、日本歴史学者、石川 恒太郎さんの「椎葉山由来記」に沿って要約しておこう。
道なき山道を逃げ、ようやくたどり着いた椎葉の隠れ里も源氏側に知られることとなり、あの那須の大八郎が兄(与一)に代わり軍勢を従え追討に向かう。しかし、椎葉の山中に来てみると、平家の残党は「満つれば欠くる」のたとえのごとく、栄華を極めた昔の平家の面影はなく、今は、椎の葉で屋根を覆った粗末な家に住み、段々畑を耕し、心穏やかに村の中に溶け込んで暮らしていた。源氏に対する怨念も捨て、平穏に過ごしている平家の落人たちを見て大八郎は「敵として討つに不忍」と討伐をやめ、平家の残党討伐は終わったと鎌倉へ報告した。そればかりか、平家一門の氏神様を祀る厳島神社を勧請(かんじょう=仏神の霊や像を寺社に新たに迎えること)したり、村人に農法を教えたりした。三年ほどの時がながれ、大八郎自身も、平家の残党共々、村の一員となっていった。そして大八郎は、なんと平清盛の末孫であったとされる鶴富姫と恋に落ちる。その逢瀬のくだりが「ひえつき節」の冒頭である。
ところが、平和で心穏やかな日々を送っていた大八郎のもとに、兵を集め直ちに帰還せよとの幕府命令がくだった。しかし、このとき鶴富姫は身籠(みごも)っていた。大八郎は、出立に際し、鶴富姫にこう告げた。
「男子出生に於(おい)ては我が本国 下野の国へ連れ越す可(べし)、女子なる時は其身に遣(つかわ)す」。
生まれた子が男であれば、俺の生まれ故郷の下野国(しもつけのくに:今の栃木県那須地方)に連れて参れ、女の子であればその必要はない、そんな意味である。二人の別離のシーンが「ひえつき節」の第二小節である。
やがて、鶴富姫は女の子を産んだ。その子が成人して婿を迎え、姓は那須を名乗らせた。大八郎や鶴留姫たちが過ごした屋敷が、鶴富屋敷である。毎年、11月の第2週の金土日には「椎葉平家祭り」が開催されている。
源平合戦の模様や落ち武者の思いは臼太鼓踊りにも取り入れられ、人吉球磨地方にも伝承され、球磨地区の伝統文化となっている。図2は、椎葉村民族資料館に展示してある臼太鼓である。このような臼太鼓を用いた踊りが球磨地方の臼太鼓踊りで、図3が水上村の上楠(うわくす)地区に伝わる上楠臼太鼓踊りである。同じ出で立ち、つまり立物(たてもの)と呼ばれる飾りをつけた兜をかぶった臼太鼓踊りは、公益財団法人熊本県立劇場の資料によると、人吉球磨地方には30ほどある。
図2. 臼太鼓 | 図3. 水上村 上楠臼太鼓踊り(水上村HP) |
人吉球磨地方の臼太鼓踊りについては、すでに、「人吉球磨地方の伝承文化:臼太鼓踊り」の項で詳しく述べた。しかし、ここで補完しておきたいことは、源平合戦や平家落人の思いが球磨地方の臼太鼓踊りに盛り込まれていることである。例えば、水上村岩野の「川内平家踊り」、湯前町の「東方組太鼓踊り」、多良木町中原(なかばる)の「臼太鼓踊り」、久米伏間田(すまだ)の「臼太鼓踊り」、葛沢(かずらそう)の「太鼓踊り」、上槻木(かみつきぎ)の「太鼓踊り」、黒肥地東光寺の「太鼓踊り」である。あさぎり町にも、例えば、深田植の「臼太鼓踊り」、庄屋の「臼太鼓踊り」、下里の「下里臼太鼓踊り」がある。そのほか、五木村の田口には「田口太鼓踊り」、下谷には「下谷太鼓踊り」がある。これらの踊りは、勇壮な源平合戦を模したものであり、平家の落ち武者が昔の隆盛を懐かしみ、偲んで舞う踊りと言われている。
図4. 上槻木太鼓踊り 出展:地域文化資産 多良木町に伝承される伝統芸能 |
臼太鼓の伝承経路を探る上で注目すべきは、多良木町上槻木地区に伝わる「上槻木太鼓踊り」(図4)である。人吉球磨地方の臼太鼓の特徴は、「背負いもの」がなく「立物:たてもの」という飾りのついた兜をかぶって舞う踊りである。
この「背負いもの」というのは、槻木地区では「からいもん」というが、「からいもん」とは、「おんぶする」ことを「からう」というように背負うことである。
その「からいもん」のあるのが上槻木の臼太鼓踊りで、鹿角(しかつの)や鍬形(くわがた)などの立物飾りをつけた兜をかぶらず、矢旗(やはた)という飾り物の旗を背負って踊る。この出で立ちは宮崎県や西都原地方の臼太鼓踊りである。多良木町の槻木地区は、宮崎県の西米良村に直近であり、臼太鼓踊りが西都原方面から椎葉や西米良を経由して奥球磨地方に伝承されたことが容易に想像できる。
敵味方の区別なく、怨憎(えんぞう)を捨てた山間の理想郷であった椎葉村に行くには、湯前から国道388号線で水上村役場前をへて、「湯山峠」を越え、さらに国道265号線で上椎葉湖(ダム湖)に沿って走れば椎葉村役場に達する。しかし、球磨郡と椎葉村を結ぶ古くからの道は、このルートではなく県道142号線(上椎葉-湯前線)である。この道は、水上役場前あたりから左折し、市房ダムの右岸を走り、不土野峠を越し、上椎葉ダムの上流に突き当たり、上椎葉ダムの左岸を下る道路である。
図5. 標高1070mの不土野峠 (手前が水上村) | 図6. 峠の県境石碑 |
図5は不土野峠(ふどのとうげ)で、図6は峠に建つ県境石碑。峠の先は椎葉村の不土野地区で、手前が水上村である。西南戦争のおり、この峠を越えて西郷軍は最後の抗戦のための人吉へ向かう。しかし、薩軍の砲弾は、官軍砲台のある村山台地(現在の人吉西小学校や球磨工業高校が在る台地)には届かず、市街地に着弾したので町は火の海と化し、人吉城は陥落した。
峠は、どこの峠も日当たりがよく、ススキが群生しており、五木の子別峠(こべっとう)もそうであったが、筆者が訪れた時は白髪のようなススキの穂が風に揺れていた。